号外!〜続・「伊太地山伝兵衛」、的な。

10363945_793642894017413_3219118692709955997_n【品質保証:伊太地山伝兵衛(Vo&G)、佐山雅弘(P)、石井康二(B)、村上“ポンタ”秀一(Dr)】

 


sammys
そ、、そうです、、、そうなんです。

私も自身のアルバムで大変お世話になった
エンジニアのミッキー、こと高橋幹也さんとの
Facebookでの何気ない会話により、

その存在が明らかとなった

伊太地山伝兵衛・お蔵入りマルチテープ
(写真提供:高橋幹也)

これは世紀の 大発見 です〜〜〜っっっ!!

私的には、Yahooニューストップって勢いです!!

あ、、、サミません。ついつい、興奮してしまって、、、!!

ってか、今年は伝兵衛さんの三回忌ですよ?!

これはもう形にするしかないじゃないですかっっっっっ

というわけで、

さっそく石井ちゃん(伝兵衛さんの平塚時代に伝兵衛さんを支え続けたベーシスト)に

号外連絡〜〜〜〜(笑)!!!

今、伝兵衛さんの事務所(フリースタジオ湘南)とお話をしてくれているみたいです。

どきどき、、、わくわく、、、からのー、わくわくどきどきっっっ

ま、形にするとなると

いろいろ著作権とか出版権とかの難しい部分もあるので

あまり大騒ぎしてはいけない空気も若干感じつつ、、、

でも、ここはひとつ、空気を読まないで

天国の伝兵衛さんに向かって

大騒ぎしてみます。

おーーーいっっっ

伝兵衛さぁぁぁぁん!

このマルチテープ
発表したいよね???


kiss the sky,
Sammy

「伊太地山伝兵衛」、的な。

sammys

さて、今年に入ってから
「シンガーソングライター」というキーワードを
よく耳にするんですが

そう、「シンガーソングライター」って聞くと
私はまず
あるひとりのミュージシャンを思い出すのです。

そのミュージシャンとは、一昨年の11月に逝ってしまった
「伊太地山伝兵衛(いたちやまでんべえ)」さんのことです。

本日(1月26日)は
私にとってシンガーソングライターの「初めびと」である
伊太地山伝兵衛さんの命日、、、ならぬお誕生日wなので
追悼の意を込めて、以下。

***

「伊太地山伝兵衛」的な。

それは、私が大学に入学してしばらく経った頃
鹿児島港の港湾計画の一貫として開催された
「第1回ウォーターフロントフェスティバル」に
遊びに行ったときのことです。

特設されたマリンステージでは
こけら落とし的なバンドコンテストが行われており
そのとき審査員をつとめていたのが
ずばり伊太地山伝兵衛さん、その人だった、、、

というわけなのですが、、、。

コンテストの最後に
伝兵衛さん率いる「伊太地山伝兵衛商会」が
ゲスト演奏をするという流れだったのですが

司会進行の人に

それでは鹿児島の誇るシンガーソングライター!!
伊太地山伝兵衛さんに歌っていただきましょう!
皆さんどうぞ大きな拍手でお迎えください〜!!!

と盛大に呼び込まれて、ずっこけながら登場して

「どうも、”シンガーソングライター” の伊太地山伝兵衛です。」
と言いながら演奏を始めた伝兵衛さんに
なんだかスゴくヘンテコな衝撃を受けて。

( *あ、伝兵衛さんは鹿児島出身ではありません、念のためw )

 

何しろ、その「伝兵衛商会」のメンバーの皆さんのお名前も、

・伊太地山伝兵衛(G&Vo)(→本名は中山さん)
・日暮そうる(G)(→本名は恒吉さん)
・ゲルマン蛸壺(B)(→本名は林田さん)

といちいちヘンテコだったのです。

でもそのときに演奏していた
「WESが聴こえる」という曲は
全然普通にいい曲でその後もずっと耳に残ってて
天文館「BLUES T-BONE」の伝兵衛商会ライブに
ついつい通うようになってしまったわけなのです。

ちなみに伝兵衛商会ライブで
いつも伝兵衛さんから
「こいつはまだ丁稚奉公の身なのでギャラは無しですが」
と紹介されていたベースの林田さんは
当時、鹿大のフォークソング同好会(サミーも所属)で
部長をされていた方で

私はこの林田さんから誘われて
そのイベントを見に行ったという訳なんです。

なんだかんだでその後、
私はこの林田さんとバンドをいくつか結成して
(スナフキンズ、BE-SIDEなどなど)
伝兵衛さんとご一緒する機会も
じゃんじゃん増えていった頃、

伝兵衛さんが突然
「よし、鹿児島はサミーに任せた!!」って言って
神奈川県の平塚へ活動拠点を移すことになったんです。

いや、任せられても
困るんですけど、、、

というのも、

その頃、サミーは
伝兵衛商会の他に加川良さんや原田芳雄さん、
桑名正博さん、近藤房之助さんなどの
ライブへシールドを巻きに

(*林田さんがT-Bone関連のライブでPAの丁稚奉公もやってらっしゃったので、
私もよくPA助手の丁稚奉公としてライブのお手伝いをさせていただいてたのです。)

T-Boneに通い過ぎてしまったせいでしょうか、、、

実は大学から留年を言い渡されていて
密かにイギリスへ逃避行計画を企てていたからなんです。

(ー 略 ー)

そんなこんなで時は流れ、、、

私は東京で昼はOLをしながら
夜は「シンガーソングライターのSammyです〜!」などと
抜かしつつ
弾き語りをしておりました。

もちろん、「ソーダ水はたくさんよ」や「星の数ほど」など
伝兵衛さんの曲たちもいろいろ演奏させてもらってました。
(キーは全部Cでしたが何かw)

伝兵衛さんはその頃
フリースタジオ湘南でライブをしたり
FM局でしゃべったり
地元に根付いた音楽活動をされておりました。

で、そんな折、
伝兵衛さんから電話があったわけなんです。

「おい、サミー、東京方面でいい案配で
そこそこなライブができるところはないか?」

と。

当時の伝兵衛さんの
「いい案配」と「そこそこ」の定義が
よく分からなかったのですが

とりあえず当時私が自分のアルバムを制作していた
池袋のライブハウス「Adm」を紹介して

「サミーバンド(Sammy with Adm Art Rock Night Allstars Band)」と
「伊太地山伝兵衛商会」の2タイトルでCD発売記念ライブを
開催したりしていたのですが

伝兵衛さんから
「おい、サミー、池袋は東京の場末だ。もっとお洒落でポップなとこはないか?」
という新たな要求が来たので

とりあえず当時私がアルバイトをしていた
青山骨董通りの地下にあるOjas(オージャス)というクラブを
紹介したわけなのです。

(*あ、今はClub Ojasはもうすでになくなってます、念のためw)

ちなみにOjasというお店では、
オープンメンバーで一緒に働いていた
(現在フリューゲルホルン奏者として活躍中の)Toku(ちゃん)が
ホーンやペットを吹いて私が歌って、、、という
こちらもへんてこな即興ユニットで
テーブルを回って小銭を稼いでおりました。

そんなこんなで
私はOjasが非番だったある日
近所のラーメン屋にチャリで向かう最中
ひき逃げにあったわけなんです。

んで、その2日後に
Ojasでライブが入ってて
コルセットをぐるぐる巻きにして
歌ったわけなんですけど

おそらく
Tokuちゃんから伝兵衛さんに
そんな情報が入ったんでしょうかね、
(当時、お二人はよくつるんでたので)

伝兵衛さんのソロ名義による
「伊太地山伝兵衛メジャー進出記念ライブ」に
招待されたわけなんです。
(あのケチな伝兵衛さんが招待っっっ!?って至極びっくりしました)

んで、ライブ後のセッションタイムで
伝兵衛さんが私を突然ステージに呼んだんです。

そのとき鍵盤の前に座っていらしたのは佐山雅弘さんで。
伝兵衛さんに「おい、サミー、佐山氏とデュオでなんか演れ」と
無茶振りされて

そりゃもうどっきどきのがっちがちで
当時の自分の十八番の(つもりだった)
レオンラッセルのA Song for Youを歌ったんですけど

曲が終わった時に
佐山さんが私に向かってにっこり放ったのが
「サミーちゃん、もっと稼ごうよ」の一言。

え?え?・・・どういう意味だか全く分からず、、、でも聞くに聞けず。

すると帰り際に伝兵衛さんが私に
「おい、サミー、お前もオレもとことん表でやらなきゃ
世間は認めてくれないんだよ。」
とこれまた謎めいた言葉を残して
去っていかれたわけなのです。

稼ぐ?表?、、、なるほど
お前もメジャーへ進出しろよって意味かしらん?
などと思っていた数日後に

当時歌唱&ライター契約をしていた
フジパシフィック音楽出版から
「ef collage」としてのメジャーデビューが決定した
という報告を受けたんです。

なるほどなるほど
ちょうどそのとき
(ジャニスが亡くなった年齢と同じ)
27歳だったので

ひき逃げされたおかげで
サマータイムも歌えるようになったことだし
(この件に関しては別の機会に詳しくお話しします。)
ジャニスと一旦離れてみようかなと
思ったわけなんです。

(ー 略 ー)

そんなこんなで月日は流れ、、、。

2007年の1月26日。
そう、伝兵衛さんの50歳のお誕生日。

伝兵衛さんは
「50歳の誕生日には渋谷のNHKホールを借り切ってライブをやるぞ〜!!」
という前々からの宣言どおり

見事錚々たるメンバーで伝説のNHKホールライブを敢行したわけなのでした。

(*Sammyの裏じゅびん〜伝兵衛さん50才記念ライブ 参照。)

実はこの日、
鹿児島T-Boneのマスター本山さんから
「ライブのチケットを真っ先に購入してたんだけど行けなくなってしまった」
ということで
2枚のチケットを事前に譲ってもらっていた私は
青山Ojasのマスター土屋さんをお誘いして
伝兵衛さんの応援に行けたわけなのです。

証拠V

【本山さんへ贈る言葉】
(映像左=伊太地山伝兵衛氏、映像右=近藤房之介氏)
撮影:サミー

(ー 略 ー)

そしてさらに時が経ち、そう、3年前(2012年)の春頃、、、
確か4月だったでしょうか。

スゴーーーくおひサミぶりに
伝兵衛さんから電話があったんです。

「おい、サミー、来週目黒でライブをやるから観に来い!」と。

なんとも相変わらずな伝兵衛トーンに思わずうれしくなって
「あ〜ら、招待してくださるんですか?」と
ちょっと色気をつけて聞きかえすと

「バカ!どアホ!!入口で5000円払え、ボケwww!!」と返されました。

あ、ケチが戻ってるwwwと楽しくなった私は
その後も「半額〜〜〜!!」と粘ったのですが
「バーカw!!」と容赦なく電話を切られました。

もちろん5000円でも行く気満々だったのですが
実はそのとき私は引っ越しをしたばかりで
またフジテレビ「カエルの王女さま」の仮歌の発注を大量に受けており
(「ef collage」の山崎燿さんが音楽を担当されていたのです。)

とにかくばったばったで
結局伝兵衛さんの「5000円目黒ライブ」には
行けなかった んです。

(ー 略 ー)

そしてまたまた時は流れ、、、。

2013年10月23日。

「ef collage」のプリプロ時代に制作していた
「Tell Me」と「異国の街では」の2曲が
当時の音源のままシングルとして配信リリースされることになったのです。

タイトル曲「Tell Me」の方は
伝兵衛さんとからんでいたまさにあの頃に書いた歌詞だったので
「5000円目黒ライブ」のときのお詫びも兼ねて
この「ef collage」の配信リリースの件や
いろんな報告メールをしたのですが
反応が全くなく、、、

おかしいなと思っていたら
伝兵衛さんの訃報を受けたわけなのです。

伝兵衛さんの50歳記念ライブのメンバーでもあった
鍵盤奏者の種子田さんのtwitterの投稿によって
伝兵衛さんの訃報を知ったのですが

実は例の鹿大サークルの部長さん
(伝兵衛商会のメンバーだった故・林田さん)
に向けて
(*そうなんです。2007年11月に林田さんも亡くなられてたんです。)

facebookにスナフキンズ七回忌追悼動画を
アップしたばかりだったので
伝兵衛さんが「いいね!」してくれないかな〜?などと
呑気なことを思っていた矢先のことでした。

 

、、、というわけで、長くなりましたが
最後まで読んでいただいた方
どうもありがとうございました。

最後に
「天国行きのバス」
に乗っていってしまわれた
伝兵衛さんへ一言。

今でもfacebookを覗いたりすると

「他人の庭先を覗き込んでる間に天国行きのバスが通り過ぎるぜ」

という伝兵衛さんの歌声が頭の中をぐるぐる回って
とってもやましい気持ちになって困ります。

なんとかしてくださいな(笑)!!

kiss the sky,
Sammy

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